Oyana chips

亀山異聞(いなかぜんざいの話)

郷土史「小屋名」より転載 亀山喜三様文

一部口語体に直させていただきました。

 

 

田舎ぜんざいのことを関西では「かめやま」という事を私

が始めて聞いたのは、昭和十七年の春であった。第二次長沙

作戦で負傷し内地に送還されて、大阪の金岡陸軍病院に収容

された時の事である。軍医官が私の病床日誌を見て「亀山と

いう苗字は珍らしいな。戦争で食べられなくなって仕舞った

が一度本家のあの「かめやま」を腹一杯食べたいな」と言っ

た。私は何の事やら解らないまま「はあ」と空返事をした。

病棟に帰ってから、かめやま等という食べ物があるかと皆ん

なに尋ねた。大阪の兵隊が笑って、「田舎ぜんざいのことを

関西ではかめやまと言うのだ。」 と教えて呉れた。「何だ

俺はそうすると大阪ではぜんざいなのか」というと皆笑った。

関西で田舎ぜんざいのことを通称かめやまというのは常識か

も知れないが、このかめやまの起源が小屋名の亀山である

ことを知る人は少ない。前項で亀山善兵衛家系図を抜き書き

したが、実はこの家がぜんざいの亀山の発祥である。

善兵衛家は江戸時代から小屋名のトップ級の大地主であっ

た。史実が語る様に小屋名村も地主や村役の中には私欲にの

み走って居た人達の多い中にあって、この家は代々村役であ

ると共に世の為、人の為に善行を惜しまなかった。小屋名古

文書にもその都度名前があるし、道祖神や供養塔にもその氏

名が刻まれている。この家、明治時代の善兵衛には男の子が

なく娘みかに太郎市という人を婿に迎える。この太郎市だか

善兵衛だかは不詳であるが、未知の商売に手を出して失敗、

田畑を始め資産を悉く売り盡(つく)し、家を仕舞って一家

は再起を期して大阪へ出た。

(亀山屋)

明治三十年頃のことである。苦節三年、大阪の天満の片隅

で屋号を亀山屋として、ささやかなお餅屋を開店した。商売

を始めるならば、お餅屋さんをと太郎市一家には夢があった。

(小屋名の正月行事)

それは家中の者が餅が大好物であった事もあるが、それよ

りも故郷の小屋名でのお正月の行事の一つである三日の朝の

ぜんざいの美味しかった想い出といっしょに松の内に食べる。

ぜんざいの意義をこの大阪で世間の人々にも知って欲しいと

いう希いを胸に拘き続けていた。ぜんざいは小豆をつぶさず

使用するのが特徴である。小屋名では現在でも三日の朝は、

ぜんざいを炊くのが行事である。小豆はこまめを意味し、小

豆の粒はつぶれない事を意味する。つまり今年も病気等でつ

ぶれず、こまめに (甲斐かいしく)働けます様にと祈りを

込めて神様にぜんざいをお供えするのが小屋名の三日の朝の

行事である。太郎市は、この意味を解り易く名文句に書いて

店内に貼った。

(小屋名ぜんざい)

ぜんざいを目玉商品に亀山屋のぜんざい「かめやま」とし

た。それにしても食道楽の大阪のド真申で、田舎丸出しの小

屋名風のぜんざいを売り出すのは、玄人からすれば考えも及

ばなかった事であったが、この太郎市の計画と着想は見事図

に当った。評判は上々である。都会の洗練され吟味された味

に馴れた大阪人の前に意表をついたこの小屋名風のぜんざい

は珍らしがられた。そして粒々の小豆、とろりとした汁、こ

んがり狐色に焦げた分厚な白餅、箸を添えるとシューと湯気

とともに何とも言えぬ焼餅の香ばしい匂いが漂う。

(お袋の味)

都会の人達の忘れられていたお袋の味を再発見した思いは、

懐かしさとともにその心を惹き付けたのである。味も上々、

それに大きな餅は、お値打ちと評判をとった。評判は評判と

なり、噂は波紋の様に展がって行った。店には常連が増えて

今日も亀山のぜんざいの「かめやま」を食べに行こう。ぜん

ざいを食べに亀山へ行こう。亀山のぜんざい、ぜんざいの亀

山が何時の間にか「かめやま」が、ぜんざいの代名詞となっ

て、かめやまと言えば、ぜんざいとなって仕舞った。他の店

でも田舎ぜんざいの看板では商売にならなくなって、「田舎

ぜんざい有ります」を「かめやま有ります」とした方がお客

に解り易くなった。この様に太郎市、茂雄父子二代の亀山屋

は田舎ぜんざいで評判となり、ぜんざいが「かめやま」と通

称になる程に大繁昌したのである。これは先祖太郎市一家の

世間への奉仕の誠心と誠意の賜であった事は言うまでもない。

この項を取材探究すればする程にこの善兵衛家系の人々に頭

の下る思いがする。この家の家訓であったのであろうか。代々

の人が世間への奉仕を惜まず内にあっては自分を律する事に

は厳しかった様である。この項の主人公太郎市を扶け、内助

の功も鮮かなみかという婦、大地主善兵衛の一人娘で下男下

女に囲まれて、みか様、みか様と呼ばれ育ったであろうお姫

様であったにも拘らず没落して、ドン底に落ちれば落ちたで

泣き事もなく嬉嬉として家業に働いている。そして亀山屋の

開店の一助となり見事に善兵衛家の花を咲かせた。みかを世

間では、お姫様扱いされていても善兵衛は世間一般の貧乏娘

同様に育て躾けて居た様に思えてならない。私は輪廻とか因

果応報といった事は、余り信じない方であるけれども、この

善兵衛家を探究思考している裡に何かそれの虜に少しはなら

ざるを得なくなった様な気がする。この家は明治の世の中が

激変動する中にあって、その対処に迷い商売に首を突込み、

悪い奴等に半ば騙されて全財産を失い、素裸となるが、神は

彼等を見捨てなかった。餅屋となって再び栄える。大東亜戦

争で亀山屋も又廃業の止むなきに至るが、子供達は立派に成

長した。この人達は現在も健在で時代の先端技術畑等で優れ

た人材の亀山として世間の注目と期待を担って活躍されてい

ると聞く。当に「積善の餘慶(よけい?)は子孫に及び祖先

の遺徳は家門を潤ほす」を地で行ったのである。

尚現在も円通寺境内、百日紅の老木がある。これは明治三

十年頃、善兵衛が破産して総てのものが他人の手に渡って仕

舞った時、たった一本庭の百日紅の幼木が残っていた。これ

を太郎市一家が大阪に旅立つ前日、此虞に万感の想いこめて

移植して行った。善兵衛家のささやかな小屋名での遺産であ

り、小屋名の名残りの記念樹でもある。