八月十六日の京都の大文字焼き(精霊送りの行事)として
天下に知られ多くの観光客で娠う。
○チンチ、カカ
小屋名にもこれに似た精霊送りの行事が盛大に行われていた。
チンチンカカとも山上りともいって、小屋名独特のお盆の行事であった。
八月十六日夕、小屋名集落に面して下組は崩シ山に六十二体の大松明で「へ」の字を描き、上組は川平山に鍋づる形に五十八体の大松明を立て、上組、下組のお互いの合図で一斉に点火した、この火の饗宴の行事は、松明作りから跡始末まですべて子供たちによって行なわれた。子供たちは真夏の、しかもお盆だというのに遊ぶこともなく、大人でも相当な労役であるこの行事を昔の親たちはあえて子供たを主役にしたのである。可愛いい子には苦労もさせ、こうしたことからも、自立の精神を養なわせ、子供ばかりでもやれば出来るという自信を持たせるための愛の親心からであった。お精霊棲も一生懸命になって子供たちが、お送りしてくれることを、一層喜ばれることであろうという意味もあった。子供たちもまたその気になって自分たちで努力して自分たちが楽しむこの行事に打ち込んだ。
小学一年生から高等科二年の男子はすべてが嬉々として参加した、もちろん不平や理屈を並べるような親もいなかった。この時、子供たちの世界もよく統卒されていて下級生には、それに相当してお手伝いもさせ皆んなで今年もチンチンカカを立派になし遂げようと一生懸命になった。家々を回って麦藁を集めた、「かやくんさい、かやくんさい」と唄うのは低学年たちである。
当時は小屋名には竹やぶが多くて明治の調査では三町八反一畝(三、一八ヘクタール)余りの竹やぶがあった。この竹は真竹であった。この松明作りの材料は麦藁と竹が主であった、このため天下御免でどこの竹やぶにも入って枯竹や竹枝を集められた。それでも杭や芯には青竹や孟宗竹が必要であった、理解のありそうなやぶ主へは、上級生たちが頼んで行った、二メートルもある大杭を作った、大松明を立てるためである。青竹を芯にして麦藁と竹枝で大松明を作った。四年生以上の者はこの大松明を二人で担いで山の峰まで運ぶ、暑さは暑しで汗だくで歯をくいしばって岩山をよじ登って行った。
一回運ぶと上級生が川へ入ることを許してくれた。
いよいよ八月十六日精霊送りの日である、午後三時ころには、いつでも点火出来るように準備を終る。小学三年生以下の者は梅ノ木瀬橋の上流と下流の堤防に一個づつ大きな松明を置き各自手に持つ枯竹を割って作った「手だい」という松明を持って集まる、大松明から「手だい」に火を移すためである。
山の麓には四・五年生の者がここにも大松明を据え、山に登っている上級生たちの数と自分たちの数だけの手だいを用意して山上と同時に点火し手だいに火を移して下山して来る上級生たちに手渡すのが任務で待機する。
夕方になるにつれて山頂で打ち鳴らす鉦や太鼓の青もさえ、はやしに合せた「サッサーエィ」の掛声もはずむ、村中の人々が精霊送り火見物に繰出す、堤防が黒山のようになる。世話好きな若い衆が点火を手伝いに山に登って来る。
ころあいよしと、上の山も下の山もー斉に点火が始まる、それを合図に山のふもとも、堤防の下級生たちも点火し自分の松明に火を移して一列になって橋を渡り山へ向って行く。山のふもとからも山から下った上級生と合流して松明を振り振り橋に向って帰って来る、上級生と下級生とが中間地点で合流し全員で橋に向って歩き出す、用意した手花火を打ち上げ始めるのもこの時からと定めてあった。
無人となった山では松明の炎はあかあかと一斉に燃えさかりへの字も鍋づる形も勢いよく描き、火の競演も、見事である。 上組と下組の松明の列が合流する橋の附近がこの火の饗宴の最高潮である、両組の奏でる精霊囃子も競演となり声を揃えて子供たちのサッサーエィの掛声もはずむ、いつも引込みがちの子供もきょうは皆んなと一緒になって一人前の顔をして松明を振りかざしている。わが子を心配して見物に行った親たちがこの姿を見て思わず嬉しさに涙が出た、このことによってわが子が急に成長したように思われたと喜んで語っていたことを思い出す。
ドンチャンドンチャン ドンチャン
ドンチャンドンチャン ドンチャン
ドンチャドン ツクロンテン
ドンチャドン ツクロンテン
ドンチャドン サッサーエーィ
勇壮に聞えた、太鼓も火勢の衰えるにつれてやがてはもの悲しくなって行く、残り火の松明を橋の上流と下流に別れて堤防に山に向って行儀よく並べる。お盆を待ち、子供たちが主演して行ない、小屋名中の者が一緒になって楽しみながら精霊送りをする「テンチンカカ」の行事は終るのであるが山に点火する時に家々では送り火を
燃やすのもこの時の行事であった。
この行事は、戦時は休止していたが二十一年に復活し以前に増して盛大であったが、森林緑化運動や生活基盤の変化に伴い、小屋名区としても昭和二十七年度総会に廃止を決議、其後数年は津保川畔で送り火を焚くなどしていたが三十年頃から全く廃止となった。松明でへの字や銅づるを描いたことには他意はない、小屋名集落に面して山道がこのようになっていた場所を選んだに過ぎない。
明治初期の子供たちはこの精霊送りで上組と下組が出会う橋のたもと附近に来ると興奮のあまり持った松明をかなぐり捨ててわあっと相手かまわずなぐりかかり大けんかをして心ゆくまでなぐり合いをした。けんかもまた剛健なレクリエーションであったわけである。
親たちも喜んでこの光景を見物していたという昔の人々の気風が、これにもうかがい知ることが出来る。
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